生い立ち
~救霊團の働きを中心として(1909年から1923年まで)~
社会の矛盾が人々の生存権を奪い、貧富の差が拡大している現実と、神学生としての自らの理想との落差に心を痛めた
賀川豊彦は、神戸市の新生田川地区での路傍伝道をはじめました。
外からの憐憫的な伝道の無力さを痛感した賀川豊彦は、自らが病におかされ、死という肉体の限界をかいま見たことで、
この地域社会に住み込み、そこに住む人々と共に生きる決意をしました。
1909(明治42)年、賀川豊彦、21歳の事です。イエス団はまさにこのときに成立をみました。
1909年 (明42) |
12月 | 24日 | 賀川豊彦、新生田川地区に5畳一間を借りて住み込み、伝道・隣保活動を開始。活動資金は、自らの奨学金と翻訳代、賃金、宣教師や教会関係の内外理解者の寄付や援助によってまかなわれる。 |
27日 | 阿波屋(木賃宿)の広間でクリスマス礼拝を開く | ||
1910年 (明43) |
1月 | 2日 | 初めての礼拝、5畳一間の自宅兼伝道所(神戸市葺合北本町6丁目221番地)を救霊團と名付ける。 |
4月 | 貸間を増やし、17畳の大広間に改造する。無賃宿泊所、食事提供、子供預かりの活動を継続的に実施する。 | ||
8月 | 80人の子供を連れて明石へ海水浴に行く。 | ||
10月 | 武内勝、伝道所を訪ねる。青年たちが手伝うようになる。 | ||
1911年 (明44) |
1月 | 補修学校、病人の収容、施薬の活動を加える。 | |
1912年 (明45) |
11月 | 一膳飯屋「天国屋」開業。(3ヵ月後閉店) | |
1913年 (大 2) |
5月 | 賀川豊彦、芝春子と結婚。 |
1914年 (大 3) |
3月 | 救霊團をイエス団に名称を変更する。 | |
7月 | 第一次世界大戦。 | ||
8月 | 賀川豊彦、アメリカへ留学。 武内勝、イエス団を引き継ぎ、伝道所に住み込む。 |
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1915年 (大 4) |
武内勝を中心とした青年、活動を継続。 | ||
1917年 (大 6) |
建坪15坪、2階建の建物(神戸市葺合区吾妻通5丁目5番地)に伝道所を移転する。 | ||
5月 | 賀川豊彦、帰国。 | ||
8月 | 友愛救済所を伝道所の2階に開設。 | ||
11月 | 大正歯ブラシ工場(日暮通6丁目12番地)に開設。 |
1918年 (大 7) |
児童会館(アッタエルロイ)を開設。 | ||
8月 | 米騒動全国に拡大。 | ||
1919年 (大 8) |
7月 | 馬島僴、友愛救済所の出張所を設けて、診療を始める。 | |
1920年 (大 9) |
10月 | 賀川豊彦『死線を越えて』を出版。 | |
1922年 (大11) |
7月 | 財団法人イエス団を組織。内務大臣より許可。初代理事長に賀川豊彦。 | |
1923年 (大12) |
9月 | 関東地方を中心に地震(関東大震災)。 賀川豊彦、関東大震災救援活動のため、活動の中心を東京におく。 武内勝を中心とした青年達、神戸での活動を継続する。 |